2015.06.21

恥ずかしいという感覚の欠如

こんにちは、大阪発公会計ブログ担当の船戸明(公認会計士)です。

 6月19日、朝日新聞デジタルで「大阪府知事、退職手当廃止の方針 対象は次期知事から」という記事が配信されました。まずは記事の冒頭を見ておきましょう。

「大阪府の松井一郎知事(維新の党顧問)は19日、知事の退職金制度を廃止する方針を固め、府の特別職報酬等審議会に意見を求めた。実現したとしても、対象は次の知事からとなる。大阪市でも橋下徹市長(維新最高顧問)が次期市長の任期から退職金を廃止する条例を提出し、今年2月に可決されている。」

 素朴な疑問としてですが、松井さんにしろ、橋下さんにしろ、ご自身は退職金をもらわれる、ということでしょうか。記事によれば、首長の退職金廃止は維新の党が掲げる「身を切る改革」の一環だそうですが、自身がもらわれるのであればまったく「身を切ってない」ように思うのですが、何かの勘違いでしょうか。

 退職手当廃止にどんな事情があるのか分かりませんし、記事だけから判断できないのかもしれません。でも、もし「自分はもらうけれど次から廃止ね」ということであれば、それを「改革」と呼ぶ人についていきたいとは、まったく思いません。
 
 
 自分は身を切らずに、負担を先送りする。
 自分が昨日言ったことと正反対のことを、今日言う。
 公約に掲げたことを、いとも簡単に忘れてしまって、別のことをする。

 最近、こうした傾向があちらこちらで見受けられます。そういう言動を見ていて思います。自分の言動の一貫性のなさを、「恥ずかしい」と思う感覚とか、一瞬でも「逡巡する」とか、そういうことはないのだろうか、と。

 あまりに恥ずかしげもなく、平気でウソをつく。
 昨日の自分の言動と、今日の自分の言動が違うことに、何のためらいもない。

 そういう言動がなぜ可能なのか、不思議でなりません。そう思っていたら、思想家で武道家の内田樹先生が、白井聡さんとの対談本である『日本戦後史論』(徳間書店)の中で、こうおっしゃっていました。

「・・優しくて、人の話をよく聞いて、穏やかな人物では政治の世界を生き抜けない。別人のペルソナを借りるしかない。生身の自分の弱い部分を切り離して作ったバーチャル・キャラクターだから、やることが極端なんです。生身の身体をひきずっていると、言葉づかいはもっと曖昧になるし、もっと深みも出てくる。論理的ではないけれど、説得力があるという、そういう言葉を語るようになる。生身の人間の発する言葉にはもっとノイズがあるんですよ。」(P.202-203)

 生身の身体とは分離した、政治家という仮面を被ったバーチャルな存在が立ち上がっている、ということなのだろうと理解しました。
 
 
 政治家であれ、会社の経営者であれ、教師であれ、親であれ、人と人が接するというのは、生身の身体と身体が接するということでしょう。仮面を通してのお付き合いに使う時間は持ち合わせていません。生身の身体の息づかいが感じられるお付き合いが少しずつ広がっていけばと願っています。


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