2015.06.14
目標は持てるか
こんにちは、大阪発公会計ブログ担当の船戸明(公認会計士)です。
装丁家に矢萩多聞さんという方がいらっしゃいます。
小学校時代に不登校になり、一時復帰されるも、中学校でまたしても不登校。その後、14歳でインドに渡る・・・
そんな経歴も含めて書かれた『偶然の装丁家』(晶文社)という本を1年くらい前に読んで、感銘を受けました。その矢萩さんが主催されている「ちとらや」という集まりがあります。「ちとらや」とは、「インドの古い言葉サンスクリット語のChitra(絵)と、Laya(家)をつなげた造語」。
装丁家でもあり、絵も描かれる多聞さんですが、絵を教える教室ではありません。子どもを対象に、身体を動かしながら、絵を描く。そんな時間です。昨日、次男(小2)と一緒に初めて参加したのですが、1時間ほど山を登り、1時間ほど絵を描き、30分ほどで下山して、お弁当を食べる。その力みのない、緩やかな時間に、心地よく身を任せることができました。
矢萩さんは、前掲書でこんなことをおっしゃっています(P.12)。
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ぼくは個性や才能というものを信じていません。自分がつくり出してきたものに、はたして独自のものなんてあるのだろうか。むしろ人さまの影響をたくさん受けています。その時どきに出会った人たち、物事の流れのなかで、おぼろげに自分のカタチが浮かびあがる、そちらのほうが自然じゃないかなぁ、と思うのです。
子どものころから「伝えたいものは何か」「なりたいものは何か」と問いつづけられることは結構しんどいことです。それよりも、いま自分の暮らす場所、出会った人のあいだで、なんとなく自分が必要とされ、自分の輪郭が見えてくる。そのほうが居心地のよい社会のような気がします。
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最近、何かにつけて「目標」を問われます。夢を持たなければならない、とも言われ続けています。私自身がそうだったのですが、夢や目標を問われるのを、「つらい」と感じていた時期がありました。曲りなりにも資格をいただいた以上、「それなりの」大きな絵を描がなければならない、という力みがあったのかもしれません。
最近は思います。夢や目標を持たなければならない、という考えは1つの価値観であって、自分が同じように考える必要はないのではないか、と。
社会学者で中東の国際関係の専門でもいらっしゃる内藤正典さんは、ムスリム(イスラム教徒)が守っている規範は、私たちの法規範とは違い、時代を経ても変わるものではない、とした上で、こうおっしゃっています。
「これを「遅れている、古臭い」と非難するのは、人間の行動規範や社会のあり方は時代の変化と共に変わるものだとする西洋の考え方です。」(『イスラム戦争』集英社新書、P.47)
ことほどさように、価値観というのは多様で、もっともらしく聞こえる話も、あくまで語り手の主観というフィルターを通して語られているにすぎない、ということもできるでしょう。
自分がなにものであり、どこを目指しているのか。それは、常に後からやってくるのだと思います。このブログを書き続けて何が起こるのかも今予想できる話ではなく、何かが起こってから「そうか、この日のために書いていたんだ」と感じるものなのではないでしょうか。