2022.09.24

自分自身の心に向き合う

こんにちは、大阪発公会計ブログ担当の船戸明(公認会計士)です。

 近所にある名所には、なかなか行かないものです。先日、長野に住む親戚から「竹林の小径って天龍寺から近いの?」と聞かれたときも、慌ててネットで調べたくらいでした。「近いも何も、その門を出て続く道のことだよ」と答えましたが、行ったことはありません(←この記憶も怪しい・・・)。

 住んでいる宇治でも、少なくとも居住して以降、平等院に入ったことはありません。ランニングで横を通って、雰囲気を感じるのみ。それなりに有名なお寺で入ったことがあるのは、三室戸寺くらいでしょうか。紫陽花で知られるお寺で、一度見に行ったのですが、それはそれは見事なもの。ただ一方で、紫陽花って、あまり大量に見るものでもないのでは、と感じた覚えもあります。

 先週末、宇治市黄檗にある黄檗山萬福寺に初めて行きました。自転車で集中的に市内を散策した時期があり、場所は知っていたのですが、境内に入るのは初めてです。「黄檗山萬福寺は1661年に中国僧「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。……日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に弟子20名を伴って1654年に来朝されました。宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺(おうばくざんまんぷくじ)」と名付けました」(同寺ホームページより)。

 単に観光に行ったのではなく、境内で「日中文化芸術祭」が開催されたのです。同イベントのパンフレットには「日中国交正常化50周年・黄檗隠元禅師350年遠忌の年に日中両国の友好を深め芸術家交流の促進を深めるために日中友好文化芸術祭を開催いたします」と謳われていました。琵琶、二胡、中国鼓、といった中国の楽器だけでなく、尺八、日本舞踊などなど。オープニングセレモニーには間に合いませんでしたが、17時から19時頃までのコンサートは、歌や演奏を存分に楽しむことができました。

 ちなみに、禅宗は臨済宗、曹洞宗、黄檗宗に分類されるのだとか。「黄檗宗では、人は生まれつき悟りを持っているとされる「正法眼蔵」という考えがあります。その真理にたどり着くためには、自分自身の心に向き合うことであるというのが黄檗宗の教えです」(同寺ホームページより)。

 その境地には至りませんが、まだまだ修行が足りないということでしょう。むしろ、最近、自分の中にある「悪」を意識しています。1つのきっかけは、中村文則さんの小説にのめり込んでいるから。デビュー作の『銃』に驚かされましたが、今日、一気読みしてしまった2作目の『遮光』もびっくりしました。とんでもない「悪」があふれていて、でも、それがチクチクと心を刺してきます。結果的に「悪」になってしまうのだけれど、そこに至る過程が執拗に描かれていて、むしろ感情移入してしまう。これって、自分とそう遠くない存在なのではないかと。

「そもそも、どうしてこの世界には悪という要素が存在するのか、というところから始まりました。人間を書こうと思ったときに、そういう部分の「悪」を書けば人間の根本が見えてくると思ったんです」(『自由対談』河出書房新社、P.117)。

 中村さんの本は、これまで23冊あるようです。3冊読みました。少しずつ読み進めていくうちに、何か、悟りのようなものに気づけるでしょうか。少なくとも、自分自身の心に向き合うことは強いられます。でも、修行ではなく小説ですから。人が書いている、という最後の救いがあります。先の中村さんの言葉は、同じ小説家の高橋源一郎さんとの対談で語られたもの。高橋さんの言葉を最後に掲げておきたいと思います。

「力強く書くことによって浮かび上がってくるものがある。強制的にコミュニケイトさせていくという書き方。だから、中村さんの作品を読んでいるとね、そういう意味では超明るい。ここまでやるか、って。やっぱりそれが小説の面白いところなんだろうなと思いますね」(同書、P.128)。


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