2021.09.26
地元を走る(2)
こんにちは、大阪発公会計ブログ担当の船戸明(公認会計士)です。
先週書いた通り、
休日、雨が降っていなければ、
朝のランニングと昼のサイクリングを楽しんでいます。
自転車で走るときのランドマークは学校。
いくつかの意味があると思うのですが、
1つは、帰宅した後、走った道をたどる際の目印になること。
もう1つは、地域の生活の息吹を感じること。
学校の周りには子どもだけでなく、いろんな人が集まってくるはず。
今、なぜ自転車で走っているのかと考えるに、
自然風景を求めてというよりも、
何気ない日常生活の営みを感じたいから。
この廃屋では、誰がどんな生活をしていたんだろう。
ここにあるお店には、どんなお客さんが来るんだろう。
立ち話をしている人たちは、どんな知り合いなんだろう。
八百屋&カフェって、どんな発想から思いついたんだろう。
家の手直しをしている人は、なぜここに住んでいるんだろう。
『東京の生活史』(筑摩書房)という本があります。
150人が150人に聞き取りを行ない、
150万字が綴られた1612ページの本。
興味はありますが、さすがに読めていません。
編者の岸政彦さんは、とあるラジオ番組で語っていました。
「あなたにとって東京とは何ですか」という質問は禁句だと。
誰もそんなことを考えながら生活していない。
ただただ普通に、生活を聞き取ればいい。
東京の代表でも、東京が理解できる本でもない。
「都市というもの自体も、偶然と必然のあいだで存在している。たったいまちょうどここで出会い、すれ違い、行き交う人びとは、おたがい何の関係もない。その出会いには必然性もなく、意味もない。私たちはこの街に、ただの偶然で、一時的に集まっているにすぎない。しかしその一人ひとりが居ることには意味があり、必然性がある。ひとつの電車の車両の、ひとつのシートに隣り合うということには何の意味もないが、しかしその一人ひとりは、どこから来てどこへ行くのか、すべてに理由があり、動機があり、そして目的がある。いまこの瞬間のこの場所に居合わせるということの、無意味な偶然と、固有の必然。確率と秩序」(筑摩書房ホームページ、岸政彦「「偶然と必然のあいだで」より抜粋)。
そこに店を開くのも、
その店が廃業するのも、
その地に家を建てるのも、
何人かで立ち話しているのも、
すべては偶然であり、必然でもある。
もちろん、東京だけでなく、宇治も。
その偶然性と必然性を感じたくて、今日も自転車を走らせることになるのでしょう。