2021.07.04

あいだの思想

こんにちは、大阪発公会計ブログ担当の船戸明(公認会計士)です。

 人間。
 時間。
 空間。

 共通しているのは、
「間(あいだ)」という字が入っているということ。

『「あいだ」の思想』(大月書店)という本を読みました。
 高橋源一郎さんと辻信一さんの対話です。

「この一〇年あまり、高橋源一郎さんとぼくが「共同研究」の名のもとに続けてきた「雑談による思想漫歩」が、『弱さの思想』(二〇一四年)、『「雑」の思想』(二〇一八年)を経て、いよいよ本書『「あいだ」の思想』をもって、一つの終着点を迎える」(P.7)。

 世界の分断や貧富の格差が叫ばれて久しいのですが、
 線を引くことや壁をつくることで
「あいだ」がなくなってきたことが大きな要因なのではないか、と感じます。

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P.17-18(辻さん)

 言うまでもなく、「あいだ」とは二つの「もの」とか「こと」、「ひと」などに挟まれている領域のことです。これは単に境界ということではありません。境界というと、ぼくたちは線を思い起こしますが、線というのは広がりをもちませんから。たとえばAとBの間に線を引くと、そのAとBの間には領域と呼べるような広がりはないわけです。むしろ線というものは、AとBにあったはずの「あいだ」を消し去ってしまう。線を引くと、残るのはAという領域とBという領域だけです。つまり、AとBの境界と呼ばれる、ある広がりをもった領域に境界線が引かれた途端に、広がりとしての境界は消滅して、AとBという二項だけが残り、AかBかという二元論になってしまいます。
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 家から縁側が失われた。
 西洋的な家のつくりは、
 寝る部屋、食べる部屋、くつろぐ部屋、とすべての場所に機能がある。
 一見、効率的なようで、縁側のような「あいだ」が失われたことで実は息苦しい。

 国境という線が引かれる。
 壁をつくると宣言した大統領がいましたが、
 イスラエルもパレスチナ自治区に入植して壁をつくっている。
「あいだ」が消えるが、不可思議なことに、
 壁をつくったほうの文化的意識が低下しているのではないか。
 そんな話も出てきます。

 2016年に相模原事件がありました。
 障害者福祉施設で19名が殺害され、多数が重軽傷を負った。
 2020年3月30日、植松聖青年の死刑判決が確定しました。

 この事件に関して、
 高橋さんが奥田知志さん(牧師・認定NPO法人抱樸理事長)の話を紹介しています。
 奥田さんは植松青年と接見し、
 その後、手紙のやりとりも重ねました。

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P.145

・・・奥田さんは「植松君」と、「君」をつけて呼ぶんです。「基本的には同じ命ですから」。でもそれだけじゃない。自分が彼とまったく別の人間で、自分とは違うとラインを引ける自信がないからだと。もしかしたら自分だってホームレスになって、さらに追いつめられたら何をしでかすかわからない。絶対しないと言えるのか。それで、「まあ変な話、愛おしい」と、ちょっと照れたように言うんです。つまり、自分と他者の「あいだ」にそんなにすっと線を引けないと、奥田さんは言っているんですね。
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 本当に偶然ですが、
 この本を読み終えたのが昨日でした。

 で、今、この文章を書いている朝5時から、
 NHKのEテレで、奥田さんの活動を取り上げている番組が放映されています。

 番組中でも、
 ご自身の活動である「抱樸(ほうぼく)」の理念を語っていました。
 高橋さんの言葉を引用することで、紹介しておきます。

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P.149

・・・抱樸の「樸」は原木。原木を抱きしめる、という意味です。原木はまだ何も加工されていないから、抱きしめると、ささくれがあったりしてこちらも傷ついてしまう。もともとは老子のことばだそうです。これはコミュニケーションのことを言っていると思うのですが、何かに向かってほんとうにコミュニケートしようとすると、こちらも傷ついてしまう。けれども、そもそも傷つくということがコミュニケーションではないのか。
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 番組中で奥田さんは言いました。

 大変と不幸は違う、と。

 酒で失敗した人を受けいれる。
 酒をやめたら受けいれるのではなく、
 受けいれるから酒をやめてね、が抱樸なのだと。

 まず抱きしめる。
「あいだ」がいかに大事なのか、
 1つの象徴的な活動だと、私は感じています。


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