2017.04.16
想像力の使い方
こんにちは、大阪発公会計ブログ担当の船戸明(公認会計士)です。
昨日、『シリアからの叫び』(ジャニーン・ディ・ジョヴァンニさん著、古屋美登里さん訳、亜紀書房)を読み終えました。アメリカの女性ジャーナリストが、内線勃発後のシリアに入り、そこにある「生活」を描き出した作品です。
今も内戦が続くシリア。アメリカの空爆など、さらに状況は複雑化していますが、本書を読んだのは政治的立ち位置を定めたいからではありません。そうではなく、シリアにどんな「生活」があるのかを知りたかったから。内戦のもと、同じシリア人同士で何が起こっているのか。そのことを少しでも知っておきたいと思ったから。
当たり前ですが、相当に厳しい記述もあります。強烈な拷問、あまりの理不尽、故郷を後にした人たちのさすらいと、命からがら残るしかない人の思い・・・村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』に、人間の皮を剥ぐという苛烈な場面があります。相当ショックを受けた記述でしたが、シリアで起こっていることも、さらに苛烈なものでした。
アメリカ人ジャーナリストで、パリに住むジョヴァンニさんは言います。
「シリアの人々は、アレッポやアムス、ドーマ、ダーライヤーに閉じ込められて身動きできずにいるのに、わたしたちはすぐにでも出ていくことができるし、ここを去れば電気とパンのある家に帰っていくことができるのだ。それで、人としての後ろめたさを感じ始める」(P.204)。
同時に、今、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(安田浩一さん、朝日新聞出版)を読んでいます。こちらも同じで、沖縄について語るのであれば、沖縄にどんな「生活」があるのかを知っておく必要があるように感じたのです。安田浩一さんのことをとある対談で知り、ぜひ著書を読んでみたいと思ったということもあるのですが。
いろんな問題が噴出している昨今。せめてものできることは、その地にある生活を想像することだと、私は思っています。ただし、想像力の使い方を間違えないように。
「いまが昭和一七年(一九四二年)で、「来月おれは陸軍に入隊するよ」というのなら、辺見のような想像は切実であろう。しかしこの平成の太平楽日本のなかに生きていて、もし自分が戦争に行っていたら、皇軍兵士のように人を殺しただろうか、もないものである。しかも七十歳を過ぎているのに。もしわたしが戦争に行っていたなら、もちろん殺したであろう。なぜなら皇軍兵士はもともと普通の農民や会社員や教師や公務員だったからである。生まれついての快楽殺人鬼だったわけではない。わたしひとりが例外であるはずもない。だが、わたしも殺しただろうといって、それがなんだというのだろう。なんの意味もない。はたしてわたしは人を殺したか? これは「ウソの問い」である」。
(『ウソつきの国』勢古浩爾さん、ミシマ社、P.178-179)