2014.06.07

学校に通う

こんにちは、大阪発公会計ブログ担当の船戸明(公認会計士)です。
 今日の日経新聞1面「春秋」で、『世界の果ての通学路』という映画の話題が取り上げられています。
 ケニア、アルゼンチン、モロッコ、インドで長い道のりを通学する子どもたちをフランスの監督が記録したドキュメンタリー映画です。
 どの子供も苦労は大きい。
 とはいえ悲愴感はない。
 学校とは自分の人生を切り開くための場所だと、はっきり自覚しているからだろう。
 そう評されています。
 我が家も小学生の子ども2人を連れて、映画館で観ました。70分強なので、最後まで観れるかなと思って。
 ところが、1年生の次男は、半分くらい観た頃から熟睡。
 6年生の長男は、家に帰ってから頭痛で寝込む。
 春秋は最後に、「子供より大人の観客の方が、何かを学ぶ意味について見た後で考え込むそうだ」と書いています。我が家もその通りだったのかもしれません。
 今、教育が危機的状況にあると言われています。その責を、先生に押し付ける論調も多い。でも、私は、違う印象を持っています。だって、自分たちの頃だって、とんでもない先生はたくさんいた。なのに、それなりに子どもたちは成長した。
 ということは、先生の質が落ちたとかそういう話ではなく、先生の質の幅を受け入れる余裕が世間的になくなっているということではないでしょうか。
 もっとも、私が言っているのではありません。内田樹先生がおっしゃっています。
 今、仙台に来ていて、気になる本屋さんで購入した内田先生の近著『街場の共同体論』(潮出版社)を読んでいます。その中で、先生について書かれた箇所を引用します。
「先生たち一人ひとりについて、「あんたにはほんとうに教育力があるのか、人間的な見識があるのか、人に『先生』と呼ばれるだけのアドバンテージがあるのか」と切り立てたら、そんな力を備えた教師なんか昔も今もほとんどいません。
 でも、「ほんとうに教育力がある人間以外は教壇に立つべきではない」というルールを採用したら、学校教育は成り立たないんです。ほとんどの先生は、昔も今も不適格教員なんです。」(P.62)
 それにしても、大阪の教育はいったいどこへ向かおうとしているのでしょうか。


CONTACTお問い合わせ

PAGE TOP