2014.05.03
何を守るのか
こんにちは、大阪発公会計ブログ担当の船戸明(公認会計士)です。
数日前の日経新聞文化欄。
「ベルベル人の言葉探訪」と題した文章を、創価大学教授の石原忠佳さんが寄稿されていました。
北アフリカに3000年以上前から住んでいるとされる原住民、ベルベル人。
ところが、8世紀にイスラム世界の支配を受けてから、その言葉は使用禁止。
文字も忘れ去られ、ユネスコからは「消滅危機言語」に数えられている。
モロッコで話されるアラビア語がまったく理解できないことを不思議に思った石原さんがたどりついたのがベルベル人とその言葉です。
以来、研究やフィールドワークを続けられ、ついには『ベルベル語とティフィナグ文字の基礎』(春風社)を上梓するまでに至りました。
遠くアジアの地で、彼らの言葉と文化の継承の一助となれたらと願っている。石原さんは、そう言って寄稿を締めくくられています。
日本でも方言がありますが、薄れつつある言葉を保存する、受け継いでいくことは、大きな意義のあることだと思います。
対象的なニュースが最近ありました。
「英語教育をめぐる議論を活発化させる目的で、文部科学省が省内の幹部会議の一部を英語で行う方針を決めたことが30日、分かった。民間企業で英語の社内公用語化に携わった人物を新たに採用して「英語会議」を担当させる。」(4月30日、日経新聞電子版)。
バカじゃないの、というのが、正直な最初の感想です。
なぜ文科省が、英語で会議をする必要があるのでしょう。英語がんばれ、と発破をかける以上、まずは自分たちから。そういう安直な発想でしょうか。
英語教育を導入するのは、グローバル人材を育てるため。グローバル人材でないと、これからは生きていけない。
よく言われる話ですが、一体、何の根拠があってそういうことがまことしやかに語られるのでしょうか。なぜ、生きていけないのでしょうか。そこが、わからないのです。
グローバル人材と言った時に意識されていること。それは、企業が世界での競争に勝ち抜くための「駒となれる人材」。私には、そんな風に思えてなりません。英語教育することを否定はしませんが、なぜ小学校3年生から英語を学ぶ必要があるのか。それが、大人への成熟をはかる上で、どう不可欠なことなのか。どうも、しっくり腑に落ちません。それより、日本語と、日本の文化を学ぶことが先ではないのかと思ってしまいます。
英語が今スタンダードなのは、たまたまイギリスとアメリカがこの200年、世界をリードしてきたら。そうおっしゃったのは内田樹先生です。つまり、英語が世界標準であることは、グローバルな話ではなく、単なるアメリカローカルな話なのだ、と。
一方で、消滅危機言語を守ろうとする話があり、一方で、厳然と存在する美しい言葉を捨てようとする話があり。今あるものの価値が、失われてからでないと認識できないとすれば、何とも寂しい話ではないでしょうか。