2009.06.19

熱血家庭教師時代 Vol.2(超大作、時間のある時に読んでください編)

2人目・・・
 2人目のオール1君は、京都に在住の中学生男子で、某中学校の空手部に所属していました。知人から電話がかかってきまして、彼を何とかしてやってもらいたいとのことでした。いろいろ聞いてみたあげく、これは俺が行かねばならないという気持ちになってきまして、車で片道2時間、授業2時間、また帰りに車で2時間という過酷な家庭教師生活をスタートしたのです。よくよく考えてみれば、時給2000円で往復6時間かかり、おまけにガソリン代もかかるという、ヘタをすれば赤字じゃないかと・・・ガソリン代が往復でどう少なく見ても1000円、お腹が減るので吉野屋に寄って、眠気覚ましにコンビニに寄って・・・
正味の時給は300円台?と思われるような事を引き受けてしまっている自分に気付きました。まあ、そうは言っても後の祭りです。彼と母親の話を聞く事から始めました。
前回の彼もそうでしたが、今回も一人っ子で、決まって共働き夫婦です。家庭教師は塾に比べてお金がかかりますから、共働きかつ一人っ子の方が一人の子にかけられるお金が多いってことでしょうか?
まず、お母さんと話をしてますと、
『この子は、今中学2年生で空手部なんですが、空手をやめさせて勉強に専念させようと思うんです。そうしないと、今オール1だったら、受験に間に合いません。』
子供は、
『いやや、空手やりたい!』
この子は、わりと細かったのですが、アクションスターにあこがれてか筋肉をつけたがっており、空手の成績もまずまず良かったようです。
ふと、自分のことを思い出しました。
〜回想シーン 井上豪15歳〜
中学3年生の野球部で高校選択を考えていた私は、4つの高校で悩んでいました。
1.高島高校(姉の通っていた高校で野球部はまあまあ強い。甲子園出場経験あり)
2.比叡山高校(甲子園の常連校で、名門)
3.大津商業高校(ここ2,3年新監督のもと急激に成長してきた高校)
4.膳所高校(進学校。ただ野球部は弱い)
この中でどれを選ぶか。まずは、何を目的に高校へ行くかです。
以前のブログに書いたかもしれませんが、私は小学校から典型的な野球小僧で、小学校の時にはメンバーにも恵まれ、県で優勝して近畿大会へ行ったりもしていました。ですので、甲子園は絶対行けるものだと思っていました。私の場合は、高校=甲子園だったのです。
その考えの中では、進学校の膳所高校はまず消えます。
次に残った3校で、高島はパッとしなかったので消えまして、最終的に比叡山か大津商業かで悩みました。結局、比叡山の野球部の伝統が嫌で、新しく急成長中で県大会でも常にベスト4以上に勝ち上がっている大津商業高校に決めました。
その時の、親の説得に苦労しました。中学校の時の成績は見かけによらず意外と良かったので先生や親はもちろん膳所(ぜぜ)高校に行くだろうと思っていたようです。ところが、当時の膳所の野球部は1回戦負けの常連(卒業生の方には失礼)でしたので、私にはありえない選択でした。親に『大津商業に行く』というと、特に親父は目をまんまるにして怒っていた気がします。昔は商業高校は女性の行くとこで、みんな就職するし、それに親父は電気屋ですから後継ぎをするなら工業高校だろうと。
そこで、説得する材料として指定校推薦があるという話を仕入れてきました。これは、大津商業高校に進学しても、がんばって勉強していれば指定校推薦により小論文だけで大学に行けるというものでした。指定校推薦のある大学として、同志社、立命、滋賀大、大阪産業大学?の4つがあり、これを取ることを条件に親を説得しました。
高校に入ってからは、噂通りの厳しい練習で、毎年、厳しい練習風景を琵琶湖放送が取材に来て『大津商業高校野球部の練習風景』みたいな番組を放映していたぐらいです。練習量はダントツ滋賀県1位であるとし、その自信を持って夏の大会に挑む、という典型的な精神力野球でした。キャプテンもやらせていただいた3年間でしたが、終わってみれば、準優勝したのが最高で、甲子園には行けませんでした。無念でした。
それはさておき、そんな野球漬けの高校生活の中で、私には親との約束がありました。指定校推薦を獲得するという約束です。早朝から毎日厳しい練習をやり、夜も遅くまで練習していましたので、家に帰ればメシ、風呂、バタンキューで勉強なんかできるはずがありません。ですので、授業中に理解するほかありませんでした。授業で理解し、寝てしまった授業も休み時間で必ずフォローするように心がけました。そして、試験1週間前は練習時間が短かったので、そこでまとめて勉強するっていうスタイルでした。
でも、野球をやっていて勉強の時間がないので、勉強のやり方を工夫しましたし、かえって集中力をもって短時間で記憶する技術をその時に身につけた気がします。これも、好きな野球をやらせてもらってるからこそ身についたものであり、私が野球をやめて勉強一筋になっていたら、集中力もなくダラダラ勉強して、結局指定校推薦枠にも入っていなかったと思います。
〜回想シーン終わり〜
以上から、私の勉強哲学は、やりたい事をやっている時の集中力を持って、そのまま勉強に流れていけば良い、ということでした。
話を戻して、生徒の彼から空手を取り上げて良いか?という話ですが、もう結論は出ていますよね。
私は、お母さんに話しました。
『お母さん、この子から空手を取ってはいけません。唯一楽しんでいる空手をとったら、何もかもやる気がなくなって、集中力のない子になってしまいます。この子を人間的も学力的にも伸ばそうとするのであれば、このまま空手をやらせて、勉強をさぼったら空手をやめさすということにしましょう』
これで話はまとまり、いよいよ本格的な学習の開始です。
しかし、さすがオール1だけあって、あの手この手で私は苦しめられました。
北の反対は東、かけ算ができない、わり算ができない、社会の授業中に突然星の話をする・・・
たまに外出して二人で吉野屋にも行きました。一人っ子なので、お兄ちゃんができたみたいに、あこ行きたい、ここ行きたいと甘えてきました。かわいいヤツだと思う気持ちが強くなる反面、私には次第にある決心が芽生えてきました。
それは、
『これは、無理だ!!』ということです。
つまり、高校へまともに進学するのは厳しいということでした。私は当時大学4回生、彼は中学2年生。つまり、大切な中学3年生の時に私は就職していないのです。
そこにきて、あまりにも基礎力がなく、性格も性格でしたから、極端に言いますと小学校1年生からやり直すぐらいのボリュームが必要でした。日々の授業についていけてるはずはなく、すべての科目をアラビア語で授業を受けているようなもので、常にちんぷんかんぷん状態。
私はお母さんを呼びました。
『お母さん、座ってください。大切なお話があります。私は2ヶ月間彼の家庭教師をしてきましたが、正直、このままでは高校進学は厳しいと思います。社会人になって恥ずかしくないよう、高校だけは卒業させてやりたいと願うお母さんの気持もわかりますが、私が担当できる残り半年余りで彼をそのレベルまで持って行ける自信はありません。
ただ1つ、高校へ行ける可能性があります。
それは、空手の推薦で高校へ行く事です!!!』
お母さんは、しばらくポカンとしていたように思いますが、私の真剣な目を見て、本気なんだと悟られたようです。
『私のいる半年は、授業はしますがそれは高校に入ってから最低限授業についていけるだけのものを目指します。あとは、筋力トレーニングです』
その日から、私は戸塚ヨットスクールの校長先生状態になっていたと思います。
宿題を忘れては腕立て100回、腹筋100回、背筋100回。
言葉使いが悪ければ、腕立て100回、腹筋100回、背筋100回。
屁をこいたと言っては、また腕立て100回、腹筋100回、背筋100回。
必然的に授業時間も長くなりましたが、それはボランティア状態になりました。
1回の授業でだいたいオール300回ほどはしていたと思います。
当然、見る見る腕は太くなり、体格もがっしりしてきました。
そんな半年ほどが経過し、私は大学を卒業して商社の営業マンとして社会人の第一歩を歩んでいたころ、彼から中学3年の春の大会だったと思いますが、京都府で優勝したと連絡を受けました。めちゃめちゃうれしかったですし、そのおかげで実際に数校から推薦の話が出て、そのまま推薦で高校に入ることができました。
こうして、壮絶な家庭教師時代は幕を閉じたわけですが、彼らから逆に多くの教訓を得ることができました。人間、どこかに絶対長所はある。それを見つけられるかどうかで、また見つけてくれる人がいるかどうかで人生は変わる。
井上ブログ上、最大の大作となってしまいましたが、長々とお付き合いいただきありがとうございました。
書き疲れたので、もう寝ます。もうすぐ朝だ〜。
明日はエアーズ合宿です。張り切って行ってきます!


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